サイレントテラス



小場 啓太(おば けいた)(♂)
少女(♀)





啓太:その…ごめんなさい…俺…ごめんなさいっ…


啓太M:ごめんなさい。魔法の言葉。
    それを繰り返すだけでいい。
    申し訳なさそうにその言葉を繰り返すだけで、
    日々の失敗はすべて、終幕に包み込まれる。

    そう思って生きてきた。そう思って生きてきたのに。
    いつの間にか器のひびは、自分が思っているよりはるかに深く。

    自分が手放すべきものが何なのかを、もう分かっていた。
    屋上の扉を開くと、心情とはかけ離れた心地よい風が爽やかに吹き抜ける。

    陽の光と俺の間、柵の上に一人の少女が立っていた。

    それはあまりにも異質な、異様な光景だった。
    雲を高くたなびく青空のカンバスに、風を受けた白服と黒髪がはためく。
    俯き顔にやや伏せたまぶたから立つまつ毛は、境界をしなやかに刺す。
    その空間だけが、世界から切り取られた気高き絵画のようだった。

    ふと、扉の音に気付いた少女が振り返る。目が合った。
    不安定な足場の上に在りながら、
    その視線は一片の怖れも抱くことなく俺の目を射抜いた。
    自分の胸が早鐘(はやがね)を打ち始めるのが分かる。

    逃げなくては。
    今はただひたすらに疚し(やまし)かった。


少女:君はもしかしたら。


啓太M:早々に踵を返そうとした俺の足を、無機質な少女の声が引き留めた。


少女:これから自分が手放すものが何なのかを、もう分かっているのかもしれない。


啓太M:ああ。
    彼女の第一声は、俺がこれからしようとしている愚行をすべて見透かしていた。

    そう、分かっているさ。
    手放そうとしているもの。その尊さ。大切さ。
    一時の気の迷いに何もかもを委ねてしまうことの愚かしさ。


少女:でも、分かっていないかもしれない。


啓太M:そう言って少女はひらり、手のひらを返して見せた。
    俺は少しカチンときた。


啓太:お前に何が分かるんだ。今会ったばかりのお前に何が…

少女:分かるよ。君と同じ目をした人間を、ここで何百回と見て来たもの。

啓太:…なんだって?


啓太M:少女は柵から降りて、俺の方へとやってくる。


啓太:な…なんだよ。

少女:ねぇ、空を飛べたらいいなあって思わない?


啓太M:言い終えるのとほぼ同時に、目の前で突如、パンッ!と何かが弾ける音が鳴る。
    驚いて反射的にまばたきをすると、急に自分の体がふわりと浮いた。

    いや、そうじゃない。
    つい今まで屋上への入り口で立ち止まっていた自分の体は、
    その一瞬で柵の向こう側へ移動していた。


啓太:っは…!?


啓太M:母なる星への引力が徐々に身に積まれてゆくのを感じる。
    自由落下だ。


啓太:嘘っ…うわああーっ!!


啓太M:意図せず大きな声が体の内から押し出された。

    空気抵抗に全身がぎゅっと押さえつけられる。
    数えきれない記憶が全身を巡り、形容できない感情が手指足指の先から迸る。
    凍り付くような寒気も、ねばつく脂汗も、あっという間もなく蒸発する。

    くそっ、くそっ、ふざけるな!
    こんな狐につままれ投げ捨てられたような馬鹿馬鹿しい終わり方があるか。
    もっと幸せな人生はなかったのか。ああ、悔しい。

    そうだ。
    俺にも小さい頃は、たくさんの夢があった。
    将来なりたい自分像があった。

    夢を叶える対価には相応の努力が必要で、
    長く険しい道のりを一歩ずつ進まなくてはならなかった。

    いつしか苦しみと戦うことより、
    今そこにある、手の届く幸せを選ぶようになった。
    その幸せはいつだって自分に優しく、砂糖菓子のように甘美だった。

    そのツケを、未来の俺が払っている。
    あのとき夢見た夢を捨てた訳ではなかった。
    いつか、いつかと先延ばしにして逃げてきたんだ。

    ああ、地面が近づいてくる。待ってくれ。助けてくれ。
    まだ終わりたくない。こんなみじめな終わり方は嫌だ。
    悪あがきでも何でもいい。自分のこの想いを手放したくない。

    本当にやりたいことを、まだ何ひとつやっていないんだ。


少女:そう。それこそが、これから君が手に入れるものだよ。


啓太M:パンッ!
    耳元で何かが弾ける音が鳴った。



啓太M:何かの音に驚いて、俺は目を見開いた。会社の屋上だった。
    どうやら眠ってしまっていたらしい。
    そうだ、仕事の失敗から逃げるように屋上にやってきて、一人でしばらく泣いて、
    そのあと…泣き疲れて、寝てしまったのか。

    ああ…なんだか、逃げてばかりの人生でここまで来てしまったな。
    魔法の言葉でその場を収めることはできても、
    心に受けた傷はなかったことにはならない。
    なのに、その傷からもずっと目を背けてきた。

    今日の失敗はひどかった。きっと心の傷も相当深いものだったと思う。
    もし寝落ちていなければ、夢と同じく最期の逃げを打っていたかもしれない。

    そう、夢だ。短いような長いような夢を見ていた。
    最初の方は思い出せないけど、高いところから落ちてゆく夢だった。

    夢の中の俺はたくさん後悔していた。
    これからすべてを失うことに怯えながら、必死に何かに向かって手を伸ばしていた。
    たぶん、それが今の俺の本当の想い、本当の願いなんだろう。

    さて、と立ち上がろうとしたが、どうしたことか。
    腰は抜け、足は震え、立ち上がることもできなくて。
    ただ情けなくて、何故かクツクツと腹から笑いが込み上げた。

    冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐き出す。
    両腿をぺちぺち叩いて気合を入れて、今度はゆっくりと立ち上がった。

    自分が手放すべきものを、俺はもう知っている。
    手放して、取り戻そう。今からでも遅くない。

    決意を胸に、俺は屋上を後にした。



少女M:気まぐれに救ったわけじゃない。
    必死に頑張っているのに報われない人が、うっかり自らを手放して、
    私のように永遠の罰を受けることになるのを見たくないんだ。

    人には欲求があり、社会には抑圧がある。
    抑圧は欲求を隠してしまう。
    時には正反対の想いを欲求と認識させてしまうことだってある。

    私は誰かの欲求を書き換えることはできないし、抑圧を薄めることもできない。
    獏である私ができることは、ただひとつ。
    夢を通して、その人の芯に近い欲求を伝えることだけだ。

    どうか、手放すものを間違えないで。
    どうか、見つけたものをしっかりと見つめて。
    そんな祈りを抱きながら、夢を見せることだけだ。

    檻の中で見る空の色は、時に澄んで、時に濁る。
    澄んだ青空を見つめられる日が、少しでも長く続きますように。

    いつか聞こえる扉の音に怯えながら、私は今日も、平穏な孤独とお茶会をする。







あとがき

元は朗読用小説として書いたものだけど、文章が登場人物2名の声と胸中しかない…
胸中の文がかなり多いけど、これはこれでありかなと思い立って台本にしてみました。

少女の名前は思いつかなかったので少女で。
そのうち思いついたら変えるかもしれません。




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